髙野山芳子さんは「髙野山企画と名乗っているが、私にはそんなに企画能力はない。人のやりたいを形にしてるだけ」と言い切る。
親代々、生まれも育ちも生粋の柏っ子で実家はやっちゃ場(青果市場)。
当時は柏神社の近くに市場があった。荷車を引いて野菜を持ってくる農家の方や、青果を仕入れにくる八百屋さん達、一緒に生活をしながら働いてくれる人…、生まれた時から、沢山の人が周りにいた。社交的で物怖じしない性格はここで培われた。2歳違いの弟を守るためにガキ大将と日々戦っている。そんな子だった。
市場を経営する父はとても厳しく「小遣いをもらって何に使う、何日働けばその小遣いを稼げるか考えたことがあるのか」と問いかけられることもあった。早く自立できるように育てられた。また、運動ができたこともあり、スポーツの大会へ出ることも多かった。
「大会へ出ることより入賞するとノートや鉛筆が貰える。それで文房具費を稼いでいたの」といたずらっぽく笑う。
高校、大学へと進学。成人してからは定職にはつかず、様々な仕事を経験。その後結婚。50代になった頃に転機が訪れる。母が『商工会議所女性会』を抜けることになり、代わりに所属することになったのだ。
このことがきっかけで、何かをやりたい人の手助け「事務局」をやっているという日々が訪れた。大きなものは10年ぶりに再会した友人に誘われた「手賀沼ジャズ・フェスティバル」の事務局。柏では知らない人がいないというくらいのイベントだ。
せっかくなら善意で集う仲間たちのために、と協賛集めに駆け回った。その結果、10年間利益になることはなくても、誰かを不幸にするような年はなかったという。
60代になり商工会議所女性会の会長になってからも、活動資金というのはキーワードになった。
「自分たちの能力を生かして資金を調達しよう」と発案、「塗り絵の会」「童謡唱歌を唄う会」「寄せ植えの会」「体操の会」など会員同士の持ち回り企画でそれを実現できる仕組みを作った。
「能力のある人が沢山いるんだから」それが髙野山さんの本音だ。
「来年も女性会の大切な節目のイベントがある」会長を退いてからも忙しそうだ。
いつまでも頼られる髙野山さんは、話の最後までいたずらっぽく笑っていた。やっちゃ場の娘は、芯の芯までやっちゃ場の血が流れていた。
「人を幸せにするために動く」ということを知っている。髙野山さんの後ろに「やっちゃ場」が見えた気がした。