山岳小説の世界
「ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです」これは作品集『注文の多い料理店』の序に宮沢賢治が記した言葉です。
木々が色づき、山頂には雪が輝き始める季節となりました。秋の深まりとともに山々の魅力も溢れてくるように感じます。
さて、小説の世界には麗しき山々を舞台にした「山岳小説」と呼ばれるジャンルがあります。
清々しく、五感全てが癒やされていく山。時に人の命を奪うほど荒々しく、しかし神秘的で有史以来、畏怖畏敬(いふいけい)の念を集めている山。人を拒み、未知の領域であり続ける山…。ページをめくればこれらの世界が眼前に広がります。
笹本稜平著『春を背負って』は奥秩父の山小屋を舞台にした連作短篇集です。小屋を訪れる人々との心のふれあい、傷つき悩む人々が再生していく物語が詰め込まれています。「しかし山はいいね、亨ちゃんーー」シンプルなこの一言には、人間模様や山岳への慈愛が込められています。
『聖職の碑(いしぶみ)』は、中央アルプスの木曽駒ヶ岳における山岳遭難事故を題材とした新田次郎の山岳小説です。その時何が起こっていたのか。間近に見ているかのような息詰まる場面、刻一刻と様相を変える山の姿が読者に迫ります。作者は『八甲田山死の彷徨(ほうこう)』の著者としても知られ、極限状態の山岳世界を私たちに見せてくれます。
『青春を山に賭けて』
は冒険家の植村直己が書いた実際の山の世界です。北米マッキンリーに冬期単独登頂後、消息を絶った筆者……。普段は眺めることの方が多い山々ですが、厳しくも人々を捉えて放さない世界に、本を通じて登ってみませんか。
■K太せんせい
現役教師。教育現場のありのままを伝え、読書案内なども執筆する。