K太せんせいの放課後の黒板消し66

K太せんせいの「放課後の黒板消し」

 「懐かしい」の正体

 「昭和を知らない若い世代の人が、昭和の映像を見て、それもまだ生活が十分豊かになっていなかった時代の映像を見て、懐かしい気持ちがするなどと言う……」これはある高校の校長先生が気づいた違和感です。その手記はこれを発端に熱を帯びていきます。

「では懐かしいと言う若い人は、いったい何を懐かしがるのか。……それはその時代の具体的な生活ではなくて、その生活の背景にあった人々の熱気、活気、貧しいながらもささやかな一家団欒、醤油が切れれば隣から一寸借り、……そんな人と人との繋がりや触れ合い、温もりを懐かしいと表現しているのではないのか。自分達もそういう生活の中にいたい、したい、という願望の表れではないのか」。

そして、校長先生はこう結論づけます。

「だとすれば、裏を返せば、今の時代がそうではないということだ。今ではモノが豊かになり生活水準は明らかに向上しているのに、懐かしいという表現でしか表すことの出来ない疑似懐古感情は、どこか満たされない自分……何か大事なものを何処かに置き忘れてきてしまったような感覚、そんな消化不良な思いの投影ではないのか」と。

さて、今年一月に刊行された浅田次郎氏の『母の待つ里』は、家庭も故郷も持たない人々の元に舞い込んだ〈理想のふるさと〉への招待が物語の軸となる作品です。その帯には、建築家の隅研吾氏が「フィクションでもかまわない、だまされていてもいいから、『ふるさと』が欲しい。そう望まずにいられないほどの現代日本の『ふるさと喪失』の深さに、涙せずにいられない」と言葉を寄せています。

どうやら「懐かしい」という心の原風景は体験した思い出だけではなく、既に失ってしまったもの、はたまた未経験故に憧れであるもの等の集合なのかもしれません。「どこか懐かしい雰囲気」を感じた時、その正体を一度見つめ直してみませんか。

■K太せんせい

現役教師。教育現場のありのままを伝え、読書案内なども執筆する。