小学4年生から陸上を始めた山下さん。中学ではバレーボール部に入部したが、体育の授業の持久走で陸上部の長距離部員よりも速く走れたことで、陸上部の部員から勧誘があり、本格的に長距離を始めた。
◆東葛駅伝 第67回は10区、第68回は1区を走った中学時代
「東葛駅伝は、中学2年時に10区、中学3年時に1区を走りました。中学3年時は約70校がスタートラインに並び、すごい緊張感に飲まれたのを今でも覚えています。走り自体はよくなかったですが、走り追えた後にゴールに移動中、各中継所から現在の順位情報が入りました。9区終了時点で8位か9位と聞いたときはすごく熱くなりました。最終的には12位でしたが、駅伝を本気で好きになったのはこのときだったかもしれません」
東葛駅伝以外では、中学2年時の支部新人駅伝で学校として数年ぶりに県新人大会に進出。中学3年時の支部駅伝も県大会に進出し、千葉県14位という成績を残した。
◆市立柏高校へ進学
「市立柏高校の上村智広先生(当時)から声をかけていただいたことと、松戸市内の中学出身では2学年上の島貫温太さん(現コニカミノルタ)、1学年上の野口雄大さん(現トーエネック)が活躍されていたことで進学を決めました」
千葉県高校駅伝は、高校2年時に6区、高校3年時に1区を走り、高校3年時、最後に出場した12月の5000mで初めて14分台を出せたことで、大学で陸上を続けられる自信がついた。
「15分00秒と14分台では大きな差があると思っており、達成感が大きかったです」
◆怪我で苦しんだ大学時代
「大学でも陸上を続けると決めたのは高校3年時の9月です。その後、各大学の陸上部へ電話をしました。『自力で入学できたら入部してもいい』と回答をもらえたのが3校あり、うち1校は拓大です。高校時代に全国大会や地方大会の出場歴がない選手が、拓大入学後に箱根駅伝を多く走っていたことから受験し、合格しました」
大学時代は、在籍期間の半分以上をケガで走れず、長期間苦しんだ。
「大学3年時の11月から継続して走れるようになり、大学4年時の関東インカレでハーフマラソンを走れたことはうれしかったです。無観客開催で大学のユニフォームを着て走る姿を家族や友人に見せられなかったのが心残りです。それが最初で最後の公式戦でした」
◆大学卒業後もクラブチーム登録で陸上競技を継続
大学卒業後は、一般企業に就職。「クラブチームの松戸市陸協で陸上競技を続けている中学時代の後輩に声をかけてもらい、松戸市陸協へ入り、陸上競技を続けています。その後、いろんなご縁があり、別のクラブチームのTeamNitroにも加入しました。2023年と2024年はTeamNitroで東日本実業団駅伝を走りました」
◆長距離種目の全種目で自己記録を更新
大学卒業後に自己記録を更新できている一番の理由は陸上を楽しめていること、と分析する山下さん。
「大学は4年間という期限がある中で、箱根駅伝を目指していました。ケガが多く、周りが結果を出していくことや後輩に抜かれていくことへの焦りで練習を頑張りすぎ、無理をしてまたケガをするという負の連鎖が続いていました。今は、走りたくない日は走りません。仕事を中心とした生活は、陸上の優先度は自然と下がります。仕事以外の限られた時間でどのように練習できるかを考え、その練習でどこまで記録を出せるかを楽しめていることが、現役時代の記録を更新できている理由の1つと考えています。大学時代の走り込みで基盤ができ、メニューの取り組み方を学べたことはとても大きかったです」
◆2022年12月ホノルルマラソンに参加。日本人男子1位でゴール
2022年11月坂東市将門ハーフマラソン2位で、その景品が派遣選手としてホノルルマラソンの出場権だった。
「ホノルルマラソンは、とにかく楽しかったです。早朝4時に気分が上がるような曲がスタートライン周辺に鳴り響き、スタート直後には花火が上がり、日本では見たことがない光景に驚きました。スタート後は、10km以降ゴールまで一人旅でしたが、5時スタートとは思えないほど沿道から多くの声援があり、最後まで楽しく走れました。目指していた日本人1位に加え、総合3位で賞金ももらえて、ものすごくうれしかったです。唯一の後悔は、景色を楽しめなかったことです。特にダイヤモンドヘッドからの朝日は、眺めがとてもいいと聞きました。夢中で走りすぎて景色を眺める余裕はなかったです。再び、走れることになったら今度は景色を見ながら走りたいです」
◆現在の目標と将来の目標
「現在の目標は2025年3月の東京マラソンで2時間15分台切り。将来の目標はフルマラソンで2時間10分切りです。競技以外では、千葉の陸上を盛り上げたいという気持ちがあり、千葉県で市町村対抗駅伝を開催したいです」
(取材・文=さとる)