どう説くどう解く道徳
道徳は何のために学ぶのか。中学一年生の教室ではまずこの問いかけから始まります。「思いやり」や「仲間」といった言葉が溢れるなか、教科書をめくってみると「よりよく生きるために」と書かれています。
では、これは「だれにとって、より良く」ということなのか。「自分」にとってのことは何となくわかりそうだけど、友だちや会ったこともない人の気持ちはどうやったらわかるのか。「相手の立場に立つ」「話し合う」「想像する」など色々な意見が出ます。総じて「相手のことを知る」ことが第一歩なのだと気付きます。
たとえば誰もが知る「桃太郎」のお話も、「鬼からしたら傷つけられた被害者だ」という反対の視点から見つめ直してみるとどうでしょう。鬼はなぜ傷つけられなければならなかったのか。悪いから退治されて当然?立場や時代によっても変わってしまう「正義」の正体について考える瞬間です。
また、実際には誰も見たことがない「鬼」についても沢山の言葉や慣用句になっているのはなぜなのか、考えてみます。差別や偏見を含め私たちが「鬼」と呼んでいるものの正体に段々と気づかされます。
自分の中の「正しさ」でさえも本当に誇るべきものなのか、問い直してみることが大切です。映画『今を生きる』で主人公のキーティング先生が教壇の上に立ち上がり「私たちは物事を違った角度から見なくてはならないんだ」と示したように。
授業では新聞紙をひいて実際に机の上に立ってみます。すると、誰しもが自然と教室の隅々まで見回し始めます。まるで普段見過ごしてしまっているものを見つけるように。そして、やっぱり立つことはできないと、座ったまま胸の痛みを感じている生徒もまた正解なのだと認め合います。目には見えないけれど確かにある心の動きを認め合う時間。それが道徳なのかも知れません。
■K太せんせい
現役教師。教育現場のありのままを伝え、読書案内なども執筆する。