逸材、時を踏みしめて・前編 ‐浮田健誠

レイソルコラム

 今季、順天堂大学よりJ2リーグ・レノファ山口へ加入した浮田健誠との出会いは2013年だった。

 千葉県鎌ヶ谷市のミナトSCでプレーしていた浮田は当時柏レイソルアカデミーダイレクターだった吉田達磨氏(シンガポール代表監督)の目に止まり、同アカデミーの門を叩くこととなる。同期には安西海斗(ブラガ)や伊藤達哉(シントトロイデン)、下澤悠太(秋田)といった個性や才気に溢れた俊英たちが揃っていた。

 「達磨さんから練習参加のお誘いをいただき、アカデミーの練習へ参加できたのですが、衝撃でしたね。『これ、ムリだ…レベルが違う』と。差を実感していたら、まさかの合格が出て…という感じですね」

 途中加入でありながら、健やかで誠実な性格でチームに溶け込んだ。小柄な選手たちの中でひときわ目立つ体格、非凡な左足、そして何より人間性も手伝って、順調にアカデミーでのキャリアを歩み、ユース年代の各大会、あるいは海外遠征で経験を重ねた。当時の監督である下平隆宏監督(横浜C監督)も浮田の身体的ポテンシャルと性格面を高く評価していた。

 2013年当時の柏Uー18といえば、中谷進之介(名古屋)や中山雄太(ズウォレ)、手塚康平(横浜C)らが躍動。レイソルに関わる誰もが新時代の到来を期待していた頃。2014年、高校2年生になった浮田は、伊藤や安西らと共に1学年上の中山らのチームに抜擢され、中谷らの世代が勝ち取ったプレミアリーグEAST(PL)を戦っていた。ポジションはワントップを中心に左右のアタックを担い、他人には真似できない左足のパワーを武器に頭角を現して、チームの攻撃の中心選手だった会津雄生(岐阜) 、大島康樹(栃木)らと相手ゴールを脅かした。

 トップとアカデミーで人材交流が盛んになりだした当時、浮田もトップチームでの練習参加の機会に恵まれ、ついにはAFCチャンピオンズリーグ出場も果たすなど、トップチーム昇格を期待されるタレントの1人として名が挙がることも少なくなかった。

「2年の時にPLで出場できた時は思い切ってというか、怖いもの知らずでプレーできて、特別編成で臨んだ海外遠征もめちゃくちゃ出来が良いまま、3年生になり、さらに気合が入って、『点を取ってやるぞ!』って意気込んでいました」

ここまでは順調だった。どんなハードルもひょいと飛び越えてみせた。

…2015年、高3の初夏まではー。

この夏、チームの中心選手だった伊藤がドイツ・ハンブルガーSVへ移籍。下級生たちの起用で伊藤の穴を埋めていたが、浮田が担うゴールへの重圧は以前よりも高まり、空回りを繰り返した。空回るどころか試合から消えたことも少なくない。

「PLで4点取った試合を境に、10試合くらい点が取れなくなって。それも一番大事な時期に。『何回やってもダメだ…』って思っていました。アカデミーの3年間では自分の弱さがはっきり見えました。最大の課題は『メンタル』で。45分で交代になることも多く、自分の中で『あれ、ダメかも…』って思うと、もっと落ちていって、監督から何か言われるとさらにミスが増えて…(笑)。『原因は間違いなくメンタルだ』と」

チームメイトにはジュニア年代から年度の軸となる複数の主要大会や遠征をこなしてきた経験があった。だから、街クラブから加入した浮田とは経験値や取捨選択のスキルの差があった。同じように途中加入した中山の例はあるにせよ、アカデミー入団後に経験した県リーグや海外遠征では感じることがなかった重圧の中においては、周囲からの檄も浮田には効かなかった。

結果、このスランプは夏以降まで続き、群馬県で開催された日本クラブユース選手権(JCY)予選や本大会初戦でも浮田の左足は鳴りを潜めた。

「JCYの予選リーグの初戦で負けた時に『進路が懸かってるんだぞ』ってホテルの部屋で改めて考えて、『泥臭くやってみよう』と臨んで、やっと点が取れました。スタメンで使い続けてくれたのはありがたかったです…後輩には中村駿太(山形)もいましたし、やりたいポジションがあった選手もいただろうに、自分を前線で使い続けてくれた監督には感謝しています。あの頃、やっと、『良い時は良いし、悪い時は悪い』で割り切れるようになりましたね」

このJCYは3年生たちが次のステップへのチャンスを掴む舞台でもあり、大会の上位に進めば、トップチームへの昇格や強豪大学への進学、他クラブの強化スタッフの目に留まるケースもある。当時の浮田もそれは例外ではなかった。街の木々が彩りを見せる頃には下平監督との個人面談が待っていたー。

「自分の中でも『もしかしたら…』と思っていた中、夏に大スランプがあり、JCYも終わって、面談の席で下平監督から、『健誠をトップへ昇格させることはできない。自分ではどうだ?』って言われた時に、プロでやっていける自信もなかった。その場で、レイソル以外のチームを探すというよりは、『4年間の準備期間がある。そこで準備してから挑戦しよう』と言ってくれたのは頭にスッと入ってきて…『大学進学』という選択肢を冷静に受け止めましたね」

頭では理解できたし、受け止めてもいた、つもりだった。しかし、面談を終えた浮田は日立柏サッカー場の一角で泣き崩れた。人目を憚ることなく。

「その時はショックでしたね。早く家に帰って、ベッドに潜り込みたかったです。昼間くらいに家へ帰って、次の日も何も予定がなかったので、ずっと部屋にこもって…今思うとあの時が一番泣いたかもしれないですね、今までの人生で。初めてでしたね、そういう経験は」

古賀太陽を筆頭に城和隼颯(法政→群馬)、大谷京平と鬼島和希(共に順天堂)、坂本涼斗(東洋)ら後輩たちの台頭はあれど、柏Uー18は2015年のプレミアリーグEASTを3勝7分8敗の8位という順位で終了。安西と滝本晴彦がトップチームへ進み、浮田は順天堂大学への進学を決め、3年間のアカデミー人生を終えた。

街クラブにいた3年前からしたら夢のようなアカデミーでの日々。多くの仲間たちと出会い、トップチームの空気も吸った。だが、肝心のシーズンに「メンタルの弱さ」を痛感した3年間だった。浮田はアカデミーを見つめるファンやトップチームのサポーターたちが自分へ向けていた視線や期待に対してはこのように話した。

「自分は街クラブからレイソルアカデミーへ進んだので、『サポーター』から声援をもらえたりですとか、試合後に取材をしてもらったり、Twitterに自分の動画や記事が出てきたりするのが喜びでした。プレッシャーというよりは素直にうれしかったのを覚えていますね。今もそこからモチベーションを得ることもあります」

翌春を待たずして順天堂大学サッカー部へ加入した浮田。しかし、次なるハードルが立ちふさがった。[後編へつづく]

写真・文=神宮克典