「きっと、私の印象は『ミカ(マイケル・オルンガ)と一緒にいる人』。ミカの付属品みたいなものです(笑)。きっと、そう思われているでしょう」
そう笑うのは柏レイソルの早川エジソン正吉通訳(以下、エジソン)。ブラジルはサンパウロ出身の日系ブラジル人。
1991年に選手として来日、建設会社系のクラブで約5年間プレーをした後、1999年にアビスパ福岡から始まったJリーグでの通訳のキャリアは21年。ロアッソ熊本、ガンバ大阪、湘南ベルマーレ、そしてもう一度アビスパ福岡を経由して2019年から柏レイソルに所属。葡日英の3ヶ国語を操るトライリンガル通訳者である。
「実はJリーグクラブで通訳になる前、もう知らないうちに通訳になっていました。社会人チームでプレーしている時に私の他にもブラジル人がいたんですがクラブが通訳と契約していなかったんです。私もまだ日本語を勉強している最中でしたが、練習や試合を含め日常的に彼らをサポートしていたんです」
これがのちの豊かなキャリアの序章となる。エジソンにとって最初の転機はJリーグ開幕に沸く頃。一度、サッカーの世界から身を引いた。
「27歳になって、続々とJリーグへやってくる素晴らしい選手たちを見て、彼らと競争することはできないなという自覚があり、サッカーを辞めました」
当時熊本県にいたエジソンは退団後も熊本で様々な仕事を掛け持ちしながら毎日を過ごした。体力には自信があったし、ポルトガル語という武器もあった。
「建築業や板金屋さん、分電盤とかそういうものを扱う会社に勤めていました。その間に熊本県内でポルトガル語を教えたり、ブラジル人向け新聞社の通信員もしていて、福岡の試合でブラジル人選手とコーチを取材して、その後も親交を持っていたら…『友達』になっていて(笑)。『通訳として福岡に来てほしいんだ』と言われて行ったら門前払いになってしまったけど(笑)、翌年に正式に声を掛けられて、1999年4月に福岡で通訳のキャリアを始めました」
その後、福岡で1999年からの10シーズンを過ごしたのち契約満了となった。
「隣の熊本で通訳が必要か門を叩いてはみたけれど、そこでもまた門前払いで(笑)。しばらくアルバイトをしながら過ごしていると、それから数ヶ月後に熊本の意向を聞いた元レイソル通訳の公文栄次さん(神戸)から、『熊本が通訳を探している』という話があって。2010年は福岡に住みながら、ほぼ一年別の仕事と掛け持ちしながらアルバイト契約で熊本の通訳をやっていました」
最初は非常勤で熊本の一員となったが、ある選手との出会いとその活躍により風向きがガラリと変わる。
「みなさんは知っているかな?熊本にファビオという選手がいたんです。徐々に頭角を現して、点を取るようになって。最初はホームのみの通訳だったのが、遠征にも帯同したり、平日にも呼ばれるようになって。その年が終わった時に正式に熊本と契約してもらえました。違うクラブからも声を掛けてもらえたりしながら」
熊本の2年目は高木琢也監督の下、ファビオとエジミウソンの通訳を担当しながら、当時レイソルから期限付き移籍中だった武富孝介(京都)、レイソルアカデミーから入団した仲間隼斗らと貴重な時間を過ごした。
2012年はガンバ大阪に移った。エジソンにとっては初のビッグクラブでの仕事。依頼主は、呂比須ワグナー。
「呂比須がコーチとしてブラジル人監督を連れてきてシーズンをスタートしましたが、スタートから上手くいかずに約40日で体制が変わってしまいました。私は運良くクラブに残してもらえて仕事を続けられたけど、その年はガンバにとって最悪の年になってしまいました。史上初のJ2降格があって、元旦の天皇杯決勝ではネルシーニョのレイソルに0-1で負けてしまってね(笑)」
翌年にはG大阪にとっては心強く、またエジソンにとっては特別な存在となる選手との出会いがあった。
「レイソルでも馴染みのあるレアンドロ・モンテーラ、『モンちゃん』がカタールリーグからG大阪へ帰ってきてね。その年に子供が産まれて、試合で立ち会えなかったモンちゃんの代役として私が病院へ付き添いました。『オレより先にウチの子に会ったことは忘れないからな(笑)』って冗談を言われたりしましたが、モンちゃんからの感謝の気持ちが尋常じゃなかったです(笑)。以来、私たちは今でも友情関係にあります」
2013年に就任した長谷川健太監督(FC東京)の指揮の下、G大阪は1シーズンでJ1へ復帰する。レアンドロらの通訳を受け持ち、充実感もあったという。しかしG大阪が新スタジアムの建設計画を進めるなど変化を求めていた時期でもあり、エジソンは再び契約満了でクラブを離れることとなった。
「これで2回目。『また?』っていう(笑)。そのタイミングでは『これでJリーグの通訳のキャリアは終わりかな』という思いもあって、就職活動をして香川県で造船の仕事に就きました。ブラジル系の造船会社へ入社して、技師やエンジニア、だいたい50人のブラジル人が所属する職場で通訳をしていました。最も買われてた技能は、漢字が読めることだったので、『データを管理してくれ』と。造船業界のいろんな専門用語と向き合うことになりましたけど、ポルトガル語も日本語も最後まで何が何だかさっぱり分からなかった(笑)」
だが、エジソンは再び現場へ帰ってきた。次の仕事場は神奈川県平塚市だった。
「2014年の終わりに湘南ベルマーレから話があって2年間お世話になりました。ブラジル人はアンドレ・バイアやキリノ、パウリーニョとか初めて日本でプレーする選手がいて。チームの中心は遠藤航(シュトゥットガルト)や永木亮太(鹿島)でしたね。2016年の終わりに『来年どうなんだろう?』と思っていたら、古巣の福岡から声を掛けられて。1年目はフロント業務、2年目は現場に戻りました。当時の監督は井原正巳さんでした」
福岡では育成型期限付き移籍で加入した古賀太陽やドゥドゥ(町田)と出会っている。エジソンはドゥドゥについて興味深い話をしてくれた。
「福岡時代にドゥドゥが言っていたんです。『ネルシーニョと出会わなかったら、自分はJリーグにフィットできなかったはずだよ』と。聞けば、ドゥドゥは『レイソルに来た時、Jリーグを少し下に見ていた』と。それをネルシーニョに見透かされ、厳しく叱責され、休日返上でトレーニングに没頭したと」
まるで「陽気」が服を着てサッカーをしているようなドゥドゥはその後も数クラブを渡り歩きながら、着実に結果を出し続ける内側にそのようなシーンがあったという。
また、通訳を担当した選手のこんなエピソードも話してくれた。
「すぐに花が咲かせられなくても、違うクラブに行ってから積み上げてきたものが開花してすごい選手になったという例もあります。2007年アビスパにいたラフィーニャは、最初は鳴かず飛ばずでブラジルに戻って、また日本に来てザスパ草津で活躍して、ガンバに加入してゴール量産して。韓国の蔚山へ行き、ACLを優勝して、横浜F・マリノスに。20歳でC契約で入った彼が、ACL優勝まで登り詰めたことはうれしかったですね」
レイソルだけを見ていても、通訳と選手はとても密接だ。特に人数が多いブラジル人だけを見ても、誰もがクリスティアーノやレアンドロのように何不自由なく日本で生活できる訳ではないし、ピッチ外の時間の方がはるかに長い、その中で通訳は選手がピッチで全ての力を発揮する為に常に最善を尽くす。故に特別な情もある。
「選手は皆、一生懸命やろうとするけど、Jリーグに馴染めなくて、出番があまり無かった場合は私も出れるように考えたり、サポートしたりする。お互いに頭で分かっていても結果が出ない。そういう選手を何人も見てきた。選手も悔しいけど、私たちも悔しいものです。ある意味、親みたいな気持ちになってね。『子供に出世してほしい。上手くいってほしい』と思う親心のような気持ちは同じなんです」
そんな親心を何倍にもして返した選手との出会いは2019年。柏でのストーリーである。
(写真協力:柏レイソル)(文=神宮克典)
– つづく-