今月も流鉄線沿線です。平和台駅周辺を歩きます。先月ご紹介した流山駅周辺のルートと合わせて歩くこともできますので、健脚の方はぜひチャレンジしてみてください。
いきなり余談になりますが、流山が県庁所在地だったことはご存知でしょうか?大政奉還を経て、このあたりのエリアは葛飾県となり、流山に県庁が置かれました。明治5年の府県統合により印旛県が誕生し、流山の県庁が仮県庁としてそのまま使われましたが、翌年に印旛県と木更津県の合併によって千葉県が誕生したため、千葉町に移転しました。もし、葛飾県もしくは印旛県が残っていて流山が県庁所在地だったら、今の姿とは全く違った街並みになっていたことでしょう。昔ながらの風情が残る細い路地を歩きながら、「たられば」を想像しながら歩くのも面白いかもしれません。
天晴通りという名の道を歩きます。(とは言っても看板は見当たりませんが)なぜ天晴通りという名前がついているのだろう?と疑問に感じながら歩いていると、流山七福神の看板が。ということでまずは長流寺へ。ここには恵比寿像が祀られています。
長流寺の近くには一茶双樹記念館があります。一茶とは江戸時代の俳人小林一茶のことで、双樹というのは、みりんの開発者のひとりとも言われている地元の醸造家、秋元三左衛門の俳号。双樹は小林一茶を援助しつつ交流を深めていたのだそう。当時の記録によると、一茶は流山に50回以上も訪れていたのだとか。交通インフラもない江戸時代にその回数は…もはや親友と言っていいレベルなのでは⁉ 双樹記念館横の通り沿いにある看板で天晴通りの「謎」がついに解明します。天晴は、江戸時代に流山で生まれた白味醂の名前で、双樹の秋元家が開発しました。この辺りに秋元家の工場があったことから天晴通りという名前がついたようです。なお、当時の味醂は、甘口の飲み物として人気だったと書いてあり、びっくり!天晴味醂と江戸での人気を二分したのが、同じく流山で作られた白味醂の万上味醂で、後者は今でもキッコーマンのみりんブランドとして残っています。
駐車場を挟んで隣にある光明院には「一茶ゆかりの寺」の看板が掲げてありました。ここには双樹の墓もあるようです。ここで珍しい木を2つ発見しました。一つは葉書の原型と言われる、字が書ける葉を持つ「多羅葉」で、流山の神社・寺院で唯一ここにあるのだとか。
もう一つが「無患子」の木で羽根つきの実としても使われています。看板には「実が地面に落ちていたらどうぞお持ち帰りください」との太っ腹なお言葉。でも地面に実は見つかりませんでした。枝にはまだまだ実がついていますので、散歩に来たら実が落ちているかもしれませんよ。
無患子(むくろじ)の木 一茶双樹記念館 流山橋 赤城神社
光明院に隣接するのは、赤城神社です。鎌倉時代に最初に建立されたとも言われている神社には赤城山の土もしくはお札が流れついたという伝説があり、それが流山という地名の由来だそうです。
神社で必見なのは、鳥居にかかる見事なしめ縄。重さは何と500㌔!氏子や地元の住民が例年10月に、1日かけて作り上げます。そして参道を進むと本殿に通じる2つの階段があります。正面にあるのは急な階段。左横にあるのは段差が緩やかな階段。湯島天神の男坂・女坂を思い出しました。
私は正面の階段を進みましたが、かなり急です。昔の人は足腰が丈夫だったんだなと改めて敬意を抱きました。
次に目指したのは流山寺。ちなみに読み方は「りゅうさんじ」です。ここには大黒像と猿田彦像が祀られています。猿田彦というとコーヒー(都内を中心に展開するコーヒースタンド)しか知らなかった私には新鮮な発見でした。新撰組の隊士はこの流山寺と光明寺に分宿したそうです。
近くの脇道を通り、江戸川の土手へ。このあたりには丹後の渡しがあり、新撰組の隊士も利用したと言われています。川には橋桁のようなものが見えますが、旧流山橋の名残で、丹後の渡しは旧流山橋の架橋により昭和10年に廃止されました。
そして松戸方面を見やると現流山橋が見えます。新流山橋の架橋により、旧流山橋は御役御免となったそうです。
鎌倉時代から江戸・明治、そして現代と、時代の移り変わりを肌で感じるような散歩でした。
(写真・文=土肥佳子)