ミストのような雨が吹きつけるUvanceとどろきスタジアム by Fujitsu(10月18日)。はるばる大阪からやってきたガンバ大阪のマスコット・モフレムも雨ガッパ仕様で震えるような肌寒さ。
今回の「あの頃の僕らは」の取材を快諾してくれたのは中谷進之介。
この日のG大阪は上位陣の背中を追う4位からのさらなる前進を狙う試合とあり、士気は相当高かった。また、金曜日のゲームでもあり、どんな形でも良い結果を勝ち取って、土曜日に試合を控える上位陣に圧をかけておきたかった。
G大阪は立ち上がりからコレクティブに前進を繰り返して川崎フロンターレを圧倒。開始7分に先制するも、家長昭博らを投入し役者を揃えた川崎に同点とされ勝点1を分け合うことになった。
試合後の中谷の様子といえば、笑顔でもなく落ち込んでいるでもなく、もう堂に入ったもの。試合を振り返る声も落ち着いている。
「家長さんが入ってきてからリズムを変えられて、全てが変わってしまった。それまでは川崎にボールを持たせても最後のところで抑えればとやっていたしできていたが、家長さんにリズムを付けられてしまうとそれ自体が難しくなってしまった。失点の場面ではウチの選手と相手選手の間で2対1を作れていたので、抑えなくてはいけなかったというのが正直なところ。前半にも追加点を取れるチャンスはあって、後半も良い時間を作れていた。そのことはチームも監督も共有しているけど、やっぱり、自分のような『守備をしている人間』からすると、同点にされた場面は守り切らないといけないシーンだったし、攻撃陣から『1点』はもらっていたので、そういった試合を守り切ることができていたのが今季の前半戦の自分たち。終盤戦を迎える最近の試合ではポロッと失点をしてしまう傾向がある。そこは自分たちでなんとかしないといけないところ」
開始から押し込む展開で試合を進めながら、最終的に押し返された。確かに時間の経過とともにチーム全体のパワーの使いどころが少しずつ後ろへ下がっていった印象はあった。そのあたりの悔いは静かな口調からも伝わってきた。
では、チームの中に何が生まれて、どのような結果を得られて、躍進につながっているのか。そして、現在は?…完全な『外様の記者』として聞いてみた。
「チームの全員がハードワークをして、失点が目立っていたチームを変えられた。ハードワークについては失点数に表れているので、1つの証明にはなっているとは思う。それを夏場以降に維持することができなくなってしまってズルズルと来てしまっているのと、得点が減ってしまっている。明らかな課題としては終盤にもう1ついけないところ。それが続いてしまっている。『後半に盛り返せる力』というのが改めて必要になっていますね」
中谷が表す、この「絶妙な抽象化レビュー」はレイソル時代を懐かしく思わせたが、余計な感傷は抜きで話を前に進めた。野暮なことかもしれないが、中谷は何を求められてここにいるのか。
「自分はDFラインをまとめることを求められてここに来ている。チームから求められていることを理解している分、『チームの要求をしっかりとできている』とはまだ言えない。全然言えません。自分はもっともっとやらないといけない。『相手をゼロに抑える』ということは自分に課されたタスクだと理解している。今日はそれができずに終わってしまったが、シーズンを通じて良いトライ自体は続けられている。また、それを続けていくには良い環境にいるし、『やり甲斐』もすごく感じているし、繰り返し続けていきたいです」
中谷はそんな「今」を過ごしている。
では、「あの頃」はどうだったのだろう?
新しい力が次々と出現しているサッカー界で、柏レイソルから名古屋グランパス、G大阪とクラブを渡り歩き、300を超える試合に出場できる選手なんてそうはいない。
中谷は比較的遅咲きだった育成年代からプロの世界へ駆け上がり、未来を嘱望される1人として、背番号の数字を軽くしていった。そのたくましさから、最初は何気なく呼んでいた「若殿(または若)」という愛称がしっくりくるようになった。初めて彼を人工芝で見た試合ではセットプレーからゴールを決めて、ちょっとドタバタしたゴールセレブレーションを見せてくれたっけ。
ただ、今回、こちらからすれば、少し驚く切り口で中谷は話を始めてくれた。
「うーん、『あの頃』ね…アカデミーの最後からプロ入りくらいの時でいいよね。今になってみると、まさかここまで現役でプレーできるような選手になれるなんて思ってはいなかった。今のG大阪でも名古屋でもね、昔の自分がそうだったように、トップチームへの練習参加だったり、昇格してくるそれぞれのユース選手たちを見たりすると、『あの頃』の自分は実力のレベル感的にも本当によくプロになったと思うし、よくここまで来れたよなって痛感する。今はすごいですよ、やっぱり」
確かに思い出してみると、2014年のトップ昇格時は「条件付き」や「自分は1番後ろからのスタート」のようなニュアンスで自らの門出を話してくれたこともあった。やはり、話をしてみるものだ。そして、客観視に優れ、すごく考えている選手だった。
「だから、メンタルのところで『絶対に負けない』って毎日やっていましたよね。『負けず嫌い感』のみで進んで行った時期。その部分は他の選手たちにも負けていなかった。言ってしまえば、その気持ちだけで今日までやってこられた選手だから。そこは今の選手たちより優っていたとは思う。だけど、その分、出会う人には恵まれましたね。優秀なたくさんの先輩たちと出会えて、たくさんのことを吸収して。自分が今そんな存在になれているかは分かりません(笑)。少なくとも、『ヘンな先輩』にはなっていないといいけどね」
「絶対に負けない」と続けてきたルーキーイヤー。少し身を屈めて体温を保つような時期、奇しくもG大阪戦でデビューを飾ることになる。ポジションは「3CBのセンター」だった。「自分はこぼれ球をクリアするだけの仕事ですよ」なんて言いながら、リーグ終盤の8連勝の中で大きく成長してみせた。
当時のややタブーの1つでもあるのだが、リオ五輪にはバックアップメンバーとして「参加」。大会を終えて、帰国した際に吐いた「学んだこと?学ぶものなんて何1つありませんでした。まぁ、見てて」という言葉は私の中での中谷史におけるパワーワードの1つだし、帰国初戦の鬼気迫るパフォーマンスも忘れられない。
そんな「あの頃」の自分に「300試合出場選手」が声をかけてやるとしたら?
「これは難しいなー…でも、自分は『もっとできたよな』って後悔をいつも感じてきたタイプだから、『中谷、もっとがんばれよ』って言いたいね。『もっとできるんだから』って。ディテール的には全体的に。自分のスペックで云えば、『ロングキックをもっと磨いていれば、自分の価値はもっと上がっていくよ』って。自分が通った道で学んだサッカーというのもあるけど、キック力を含めて、パワーも含めて、『あの頃』の自分はもっとやれることがあったよなって思うかな。ただ、それは今このキャリアが積めているからの部分は大きいけどね。だからこそ言える。それこそ自分で描いていた以上のキャリアを歩めていて…きっと、たくさんの人がそう思っていたんじゃないかな?自分でもよく思うくらいなんで。だからこそではありますけど、『やれることがまだたくさんあるよ』って言ってやりますね」
2018年には名古屋へ移籍。当時の「中谷、名古屋移籍」報道に割り当てられた記事の小ささについては私の中で未だに納得できていないが、着実に結果を重ね、ACLにも出場。
華々しく前進を続けているように見えてはいたが、やはりそこは考える選手。「川崎など明確なスタイルを持つクラブに対して良い試合はできても、苦しい結果が続いている。その一方でウチの『自分たちのスタイル』となると…」という問いを繰り返しながらいたが、リーグ杯も手にするなど名古屋の固い守備の中心を担うに至るフェーズを生きるわけだが、その少し手前、名古屋へ移ってから少しが経った頃、中谷はこんなことを話してくれた。
「名古屋へ来てからボールの置き方やトラップに関するところを徹底的に修正されましたね。そこは最初の衝撃でした。今までのトラップだと選択肢が限定されないか?という意味で。今はその違いを覚えているところなんですけど、『所属チームを移る』ということは感覚的なところから変化を求められる場合もあるんだなって思いました」
また同じ場でこんなことも話してくれた。
「A代表ね。今のメンバーや自分より若い選手たちを見ていると、『自分はちょっと厳しそうだな』って感じているんです。みんなすごいから」
これが主に誰を指すのかについての正確な言及を控えるが、その選手はベルギーからイタリアへ渡り、今はイングランドでプレーをしている。とはいえ、中谷はその後にW杯2次予選などで数回の代表選出を経験するなど、プロデビュー前後のような前進を見せ、ここからもう一段スケールを上げたのも事実。キャリア的な行き詰まりを成長の機会に変える力は現在の中谷を造ってきたと私は思う。
またしばらくして、名古屋のCBとして日立台に凱旋した際はまさに屈強な壁として我々の前に堂々立ちはだかった。細谷真大とのマッチアップは毎回、極上のデュエルとなるし、細谷側に立つ我々からすれば、中谷は明らかな「天敵」。過去には細谷にスペシャルな1発をお見舞いされているが、その1発以降は中谷が優勢。ただ、お互いがある一定の信頼関係のもとで、ハイレベルに絡み合うプロフェッショナルな攻防は何回でも見届けたくなるものだった。
そんな名古屋でのキャリアの最後の試合はまた奇しくも柏レイソル戦だった。このあたりの「引き」は驚きだった。ただ、この日は出場することなく試合を終えた。肩を落としていた様子は遠くからでもよく分かった。この頃、既に「G大阪移籍」の報道こそあったものの、寂しそうに岐阜長良川スタジアムを見渡してから、「また会いましょう」と言う中谷とは「ほんまでっか…ほな、またな」と別れた。さすがに少しだけ睨まれた。
そして今季、新天地・G大阪で通算J1通算300試合出場を達成。もうこれは誇るべきマイルストーンである。その記念試合では懸案だった「夏場以降の改善点」と求め続けた「後半に盛り返す力」で磐田との撃ち合いに競り勝った。
あの「若殿」も28歳になる。
もう「若殿」以上の何かに手をかけている。
ゴールセレブレーションは未だにドタバタしてから始まるが(あれから良い言葉ができたよね、「エモい」っていう)、チームを救う貴重なゴールだって決めている。完全にチームの要となった今ではあるが、「その先」を設定するにはいい頃。もちろんイメージをしていた。
「自分の中では『代表』とか『海外』を見据えていた時期もありましたけど、名古屋を経て、G大阪にいる。『300試合』を達成させてもらえたことはすごく光栄です。『次』となると、この数字を伸ばしていていくことは大切になるし、『G大阪でタイトルを』という気持ちも持っていて、今もJリーグも獲りたいし、天皇杯も獲りたいのは正直な気持ちではあるけど、記録であったりタイトルだけを追い求めていることの重要性以上に、『上手くなりたい』、『成長を続けたい』という欲を消さずに持ち続ければ、獲りたいものは後から付いてくる。そう思っているから、良いキャリア云々を追い求めることは大事かもですけどね、何よりもまず、『毎日を一生懸命に生きて、一生懸命に練習すること』。自分はそれをこれからも続けていきたいんです。プロサッカー選手を10年くらいやらせてもらえていますけど、ここだけはまだまだ変わらずに続けていきたいですね」
続けざまに「では、いくつまでプレーをしましょうか?」と話を向けると、「もちろん、35歳くらいまでバリバリでやりたいって思っていますよ。サッカーが好きだからね。多少しがみついてでも、やれるところまではやるつもり。いずれ、指導者にだってなりたいしね」と言うくらいだから、28歳までの積み上げ以上にこれからの毎日が大切になってくるは重々承知しているはずだ。
その「特別な領域」を知る人間が今は近くにいるところもまた興味深い。そもそも中谷と「終わり」について話す日が来るとは思わなかったが、いつの日か、「この人はまた人に恵まれた」なんて言う日も近いのかもしれない。
忘れちゃいけない、ずっと言いたかった。
中谷が私に焼き付けた幻影は、今も育成年代でのCB選手を見る時の貴重なサンプルになっている。中谷の存在は私の中で立派な「知見」だ。
最後に、もう年齢しか勝ち目のない、生い先短い私めから一言を言わせていただくと、「若、もっとやりなさい。若にはもっとやるべきことがおありだ」ー。
昨年、「もちろん、応援してる。勝って欲しいよ」と言ってくれていたあの舞台。今年は私めが「あの美しい杯を空へ挙げる時が来た」。そうも思っておりますぞ。
(写真・文=神宮克典)