[Essays/あの頃の僕らは] - 江坂任(蔚山HDFC)編

レイソルコラム

「彼らは記憶の中にいる。ずっと、記憶の中で生き続けている」

 勝手にこちらがセンチメンタルにキメてみても、言われた側の彼らは生きているし、今なお現役選手なもんだから、まったく扱い辛い感情である。さらに「私は彼らのことを見ている・分かっている」なんてアングルを併せて付け加えようものなら、かすることはあったとしても、いわゆる「妄想」のような結構失礼な感情由来の記事になってしまう。

 「どうしたらいいか?」と考えてはみたが、考えるまでもない。彼らと会って、話をすること以外にない。ただ、「マイルール」として、他者の会話に聞き耳を立てて…なんて愚策はもってのほかだ。

 次は「じゃあ、会えるのか?」という疑問と向き合うのだが、「どうやら、会えそうだ」とスケジュール調整に没頭する。試合情報や試合結果をチェックするには便利な時代。それぞれの出場傾向を把握する。試合会場へ行く。正直云えば、ちょっとギャンブル気分の日もあったし、会場によっては「今日は何をしに?…ああ、なるほど。『レイソル』だ!」と驚く記者たちに対して、「個サポなんで!」と愛想を振りまいた。

 もちろん、試合結果やプレータイムはそれぞれ。取材エリアでは皆一様に驚くが、変わらないのは、すぐに話に付き合ってくれたこと。だから、試合の話もチームの話も聞いた。それぞれのエンジンがかかったところで本題にという具合だ。

 「今回は『あの頃の僕らは』って話をしたいんだよね」と。

 今回取り上げる面々はみんな、揃って知り合った時とは違う色のユニフォームでたくましくプレーを続けている。それぞれの立場も「あの頃」と違うのだが、全く変わらないのは「言葉」を持っていることだった。

 さて、拙い前口上はほどほどに、はじめよう。


 「あの頃の僕らは」

 このテーマコラムを思いついて最初に浮かんだのはKリーグ王者・蔚山HDFCでプレーする江坂任。我々の「あの頃」は一度、突然途切れてしまい、気づけば韓国は蔚山にいる。

 以来、蔚山の選手として、「来日」した際に何度か取材をさせてもらっている。

 「太陽やマオ、みんなようやっとるな!まぁ、太陽は分かるけど、ホンマにマオはエグなったわ」

 「ワンちゃんは元気?ワンちゃんめっちゃ大好き。人として最高。敵の時は嫌な選手やったけど!」

 「山田康太、彼は良いもの持ってると思う。粗さも含めて」

 「見れる限りで試合は見てるで。天皇杯楽しみにしとくわ」

 「実はこう見えても、『プラチナ世代』なんで。その中にはいなかったけど…」

 時系列はズレるが、その都度、そんな話題から始まり、蔚山ではたくさんのポジションをやっていることや全く試合に絡めない日々があったこと。日本からの声援にも感謝していることなどを話していた。

 蔚山のユニフォームにはまだ慣れなかったが、卓越した両足のスキルから繰り出す美しいスルーパスや見事なシュート…やはり、その端正なルックも相変わらず。常に「人間としての共通点は『肺呼吸』だけやで」と思わされる人であるのも相変わらずではあるが、私が江坂を最も尊敬するのは、姿や形、業態は違えど、「表現者」として優れていること。特に心の根は強く、優れている。


 だから、記事にしたくなる。ただ、試合ついてを報じてさえいれば概ねの体裁は保たれるのに。

 最初にお伝えしておく、この記事は長くなる。

 たとえば、その一例としてピックアップさせてもらうと、この10月、「Asian Champions League Elite」と名称を改め、大会フォーマットも一新したACLでの横浜F・マリノス戦。蔚山にとっては「良いところなく完敗」という試合。負傷による小離脱からの復帰初戦となった江坂自身も前半45分間のプレーで退いた。患部をアイシングしながらピッチを眺めてピッチを後にした、そんな試合の後でもしっかりと我々が構えるマイクの前で対応した。


 「準備してきた戦い方…ほぼ韓国でやっている内容で挑んではいましたけど、マリノスが攻守両面で一枚も二枚も上だったということ。準備してきたことをマリノスが上回ってきたので。韓国では上手くいくことも巧いマリノス相手では難しかった。やっぱり巧かったです。これだけ素晴らしいピッチでサッカーをできて、全員がチームの戦い方を共有しているチームというのは強いですね」

 ボールホルダーに力強く食いつく相手に対して、食いつかれる前に剥がして、生まれたスペースを巧みに活用したチームが勝った試合。そのコメントの文脈からはACLの難しさの一部を感じ取るに至った。また、今は「K」にいる江坂は現在の「J」をどう見ているのか?日韓で何が異なる?そんな話題を続けて投げかけるとこう話してくれた。

 「確か『ポゼッション型のチームが苦しんでいる』という記事を読んでいたんですけどね、今日やって…『え、なんで?』という感じでしたね(笑)。きっと、リーグのレベルや対策の質も上がっているのでしょうし、自分の中のJリーグの良さは、どこが勝つのか分からないところ。これだけ良いサッカーをしていても苦しむのは、Jの面白いところなんですけどね。蔚山はリーグを2連覇(後に3連覇達成)しているチャンピオンですから、リスペクトを集めるクラブで良い選手も集まるので…自分もタフになったと思います。自分が欲しいタイミングでボールが来るわけでもない。やりたいことが出せるわけではない。でも、自分の良さをしっかり出して、日本と比べファイトする要素も必要な韓国のサッカーにもフィットしていけたつもり。日本では経験できないことをできてはいますね。その部分は成長できた。日韓では環境面の違いを感じます。先々週の川崎戦(蔚山)では両足を捻ってしまいましたからね(笑)。今日は『Jリーグの当たり前』である素晴らしいピッチに感謝して、プレーしていました。そのあたりも両国のサッカーの違いに繋がっているのかなと思います」


 このように、「蔚山の横浜遠征」という記事ならとっくに校了していい内容をスパッと話してくれる。日本での試合後に自分に求められていることを理解して、自分の言葉で伝えてくれるあたりは記憶の中でも変わらないし、だからこそ「来日」のたび、マイクを向けていた。

 そして、後日、仕切り直しをさせてもらった。

 変わらないところはちゃんと残しつつ、変わった点を挙げるとすれば…少し、笑顔が増えた気がするというところか。

 「そうなんですかね?自分も32歳ですからね、もう…ベテラン(笑)」

 海を挟んだ隣国とはいえ、そこは異国。しかも、旅行ではなく、ただ生活をするだけでもない。隣国とはいえど、言語圏だけでいえば、英語圏より難しいのではないかと私も思う。

 「韓国へ来たことがすごく大きな経験になっているのは自分でも感じているところで、メンタルの部分は特に成長できたかな。蔚山へ来て、色々な場面で『日本の当たり前は、当たり前なんかじゃない』とすぐに理解したし、『日本は恵まれ過ぎている』ことを痛感しましたね。そこから始まりましたから。ピッチでも日常でも。『環境』、『孤独』、『サッカーの違い』もね。今はJリーグへ加入する外国人選手の気持ちがすごく分かる。こっちで苦労をしたし、成長できたと言えるから、以前より人間的な余裕があるって思いますね」

 韓国代表としても活躍するチームメイトであるGKチョ・ヒョヌらはまさに右も左も…という江坂にすぐさま手を差し伸べた選手たちだというし、5人在籍するJリーグ経験者や後に通訳担当となる日本語を話せるスタッフにも巡り合った。「本当に苦しくて大変だった」という最初の数ヶ月間はベンチ入りすらできず、空白期を体験したというが、徐々にチームにフィットしていったし、試合を決定付ける大胆なキー・パスや同様のインパクトを残していった。前任のホン・ミョンボ監督は江坂のフィット具合を見極めて次第に江坂をジョーカー的に重用していたように思う。

 私は日本での試合しか取材できていないが、等々力陸上競技場でも国立競技場でも横浜国際総合競技場でも、蔚山サポーターから発せられた「아타루(アタル)!」という黄色い声援が飛んでいた。私が現場で世話になった蔚山の撮影スタッフも「아타루はカッコいいよ。みんな大好きだよ」と話してくれた。そんな存在だ、クラブのプロモーションに起用されたこともあるし、江坂に迫る質の高いドキュメンタリームービーは公開予告付きで作られた。勝利のタイガーポーズで集合写真に写っていたりいなかったりするあたりには「らしさ」が残っているのだが、ある来日試合では試合後の挨拶のタイミングでゴール裏へなだれ込みサインをするなど、状況を楽しみながらチームの一員となっていった。

 「たまに蔚山でもイジられるで。『アタルは日本のプリンスだ』って…自分のことを少しでも知っている人なら、プリンスちゃうことくらい分かるやろ?」

 その「称号」が欲しくても、一生…いや、生まれた瞬間から手に入らない運命を生きる側の人間からすると、かなり贅沢な発言ではあると断言できるが、本人としては「もうええ」という感じなのであろう。

 突然、「あるポーズ」の設定と締切を決められ、メッセージ付きで写真を送ってくれとのオーダーに満点回答で応えてくれたこともあった。今や「スー」だって差し上げる。電話の向こうからは「かわいい声」もする。江坂にはこの間実に色々なことがあり、今に至るのだ。

 だから、私は余計に気になった。「あの頃〜」について。

 「『あの頃』なぁ…自分としては、今も大切にしているメンタリティでもあるんやけど…今になって思うと、『あの頃』の自分って、ギラギラというかメラメラし過ぎていたって思うんですよね」

 背番号10を背負い、初のACLに挑み、苦労はあった。最高の仕事を見せ続けてくれたポジションは当初担っていたポジションから数m後ろだったが、驚愕のゴールハンターを操り、たくさんの歓喜を私たちに届けてくれた「あの頃」ー。

 「ほんまに素晴らしいメンバーたちと戦っていたなって今でも思うしな、やっぱり自分の最高の状態は『あの頃』やったと思うよ」と回想する。その中心にいた「アタル」に対して아타루が声をかけるとしたら?

 「何やろな…『アタルよ、世界は広いよ!』やな。絶対にこれやろ。それこそ、まだ全然分かっていないし、知らないから。自分の周りのことを。『もっと、自分の周りには未知なものがあるよ!』って言ってやりたい。『世界』って言ってもね、国や大陸、言葉だけちゃうくてね。色々なことがあるよって。良くも悪くも『サッカーに全振りし過ぎやで、もっと色んなことに目を向けていれば、心に余裕が生まれるで!』ってね。苦しかった?…あの頃は苦しくないねん、だって『自分にはサッカーがある』って信じてるから。何も知らんしな、良くも悪くも『サッカーに左右される』人やったからね。『もっと話をするべきだった』ってこともあったしね。今思う以上に、『あの頃』の自分は試合に出れる出れないで日常の気分も左右されたりしていただろうしね…」

 聞いてよかった。私のタスクはもう十分…といったところで江坂は「…あとね」と話を続けた。

 曰く、「あの頃」から4歳ほど年齢を重ねて、実感するものもあるという。それらは軽い痛みにも近いほど頻繁に、大きく胸に去来するものだという。

 「今になって思えば、タニくん(大谷秀和コーチ)の振る舞いや物事を俯瞰して捉えているあの感じ?タニくんも年齢や経験を重ねてたどり着いたのだとは思うんですけど、『大人な人やな』ってすごく思いますね。あの振る舞いからすると、『あの頃』の自分はあまりにも周りが見えていなかったなって。そこは自分の中の後悔でもあり、反省していかないといけないところ。離れてみて初めて身に沁みる偉大さとかってあるじゃないですか?タニくんからはそこを強く感じていますね。タニくんや阿部勇樹さんのような人の中にある凄さを年齢を重ねてより理解しています」

 その感情に気づいた場所なんて関係ない。いつどのように感じ、どう向き合っていくのかだ。その際に積んできた経験がものを言う。江坂は今そのタイムラインにいるのだろう。そう感じていると、通話に「かわいい声」が割り込んでくるペースやボリュームがいよいよ変わってきてしまった。

 そろそろ取材を終えなければ…そんなタイミングで江坂に最後の問いを投げかけた。「この先はどのようなキャリアをイメージしている?」と。

 「32歳、この先のキャリアはすごく重要なものになると思います。でも、重要なことは間違いないんやけど…自分のマインド次第、その持ち方次第でどうにでもできるんじゃないかなと思うんです。なんやろ?『今の自分にあるものをキャリアに対してどう左右させられるのか』。それすら、もう自分次第というか…いわゆる、『酸も甘いも』という人生経験のところだったり、『悪かったな』って思っていたことをどうやって良い方向に導けるのかじゃないですか?あることがあったとして、まずそれを『悪かった』と思えるかもあるし。今はその手前で踏みとどまれる。その成長を感じているんです…やっぱり、トガってたな(笑)」


 去就についての確実性の低い報道があったという話題には、「記事?ほんまに?今は蔚山の選手やから。それ以外は何もないで」とサラッと一蹴。知り合ってみると、知り合う前の印象とのギャップが大きい人である。

 こんなエピソードがある。

 江坂と久しぶりに対戦をした川崎時代の大南拓磨(ルーヴェン)は試合後に「やっぱり、自分は『アタルくんは怖い』ってことを知っているんで、やられ過ぎないようにずっと見張っていました…あ、あの、自分がアタルくんは怖いって言ったのは『対戦相手として』ですからね!」とやや慌て気味に否定していたこと。

 ん?これはちょっと違うな。すまない、大南。

 そんなところからもう一個。

 また、ある時、江坂と初めて実戦を戦った、ある若手選手は当時まだ第2種登録選手の高校生。彼はその試合を終えて、自宅に帰宅するなり、開口一番に家族へこう話したという。

 「アタルくんが…優しかった!」ー。

 皆まで言わずとも、「そのあたり」も魅力といえば魅力。課題といえば、課題だった。

 「たとえば、何かのメディアで話している姿とチーム内での自分の姿が余りにもキャップがあるから、新しく知り合う選手に『めっちゃコワい人かと思ってた』ってよく言われるし。それこそ、『プリンス』とかも言われたり。身内からすれば、『誰がプリンスやねん!』って話やねんけど(笑)。あの頃はそのあたりに対してもトガってしまってましたね。もっと、メディアやサポーターの前でも素の自分を出せばよかったって気持ちもあるんですよね。そこも今ならやれるはずです」

 今は「そのあたりも」笑顔で片付けられる。きっと驚く人もいよう。

 今回、江坂任の「あの頃〜」を巡る取材が残したものは彼の次なるチャプターがさらに楽しみなるプロローグだった。もちろん、誰しも「あの頃」があっての「現在」。「あの頃の江坂任」がいて、「現在の江坂任」がいるのは言わずもがな。次の歩みがとても楽しみだ。

 そして、この記事をまとめないのは、「続きがあるといいな」と考えているからだ。場所はどこでもいいかな。その場所がどこであれ、また「聞きたいこと」を携えて伺うつもりだ。



 「選手・江坂任」の時は標準語。「人間・江坂任」の時は神戸弁。そんな違いに気づいた時、きっと、あなたはまた江坂任を好きになっている。

(写真・文=神宮克典)