東葛駅伝を走った選手たち-Vol.7 中光 捷さん(我孫子市立白山中学校出身)

東葛駅伝
第67回東葛駅伝、1区を走る中光さん

  小学6年生の時、我孫子市市内陸上1000mのレース後に白山中の樋口清和先生(現:我孫子中監督)に声をかけてもらったことがきっかけで陸上競技を始めた中光さん。中学時代は陸上部と野球チームを掛け持ちしていた。

◆第67回、第68回東葛駅伝は2年連続で1区を担当

 「白山中は東葛駅伝で常に優勝候補で、駅伝直前の壮行会では全校応援の重みを感じました。中学2年時は大会の規模、レベルの高さに緊張して力を出し切れなかったですが仲間に助けられ優勝できました」

第68回東葛駅伝で優勝し、カップを持つ中光さん(右から3番目)

 中学3年時の春先の記録会3000mを9分02秒程で走れたことで全国でも戦えると思い、気持ちが陸上競技へ大きく傾いた。「その頃から高校から本格的に陸上競技を始めることを意識しました」

◆専修大松戸高校へ

 白山中時代に3000mで全国大会を経験している先輩がいたことや、全国高校駅伝に「あと一歩」の印象があった専修大松戸で全国高校駅伝に初出場することに魅力を感じ、進学を決めた。

 「トラックで高校3年時に5000mで全国大会に進出できたときは、やっと念願が叶ったと思いました。私以外に同期が2名、全国大会に進出し、他のメンバーも力をつけていたので、『このメンバーなら全国高校駅伝を狙える』と手応えがあり、最後の千葉県高校駅伝に挑みましたが、優勝はできなかったです。3区を区間2位で優勝へ導く走りができず、悔しかったです」

2015年6月千葉県高校記録会少年男子B3000m

 

◆箱根駅伝を目指し、法大へ

 保健体育の教員免許を取得しながら箱根駅伝を目指せる事と、駅伝に特化したチームカラーに惹かれ入学を決意。大学3年時に箱根駅伝16人のメンバー入り。9区エントリーも当日変更で走れず、悔しさが残った。

2018年7月法政明治対抗戦1500m

 「箱根駅伝が終わった翌日の1月4日以降は、他のすべてのレースを捨ててでもなんとしても最後に箱根駅伝を走りたいという思いで練習に取り組みました。しかし気持ちが先走り、目標から逆算して1日ごとにやるべきことが明確でなかったことで練習もレースも上手く組み立てられなかったです」

 12月、箱根駅伝の16人のメンバーを決める1km3分の16000mのペース走を最後まで残れた8人に入ったが、総合的に評価した時に監督の信頼を得られず16名のメンバー入りはできなかった。

 「それでも惜しいところまで持って行くことができ、年間を通して頑張った甲斐がありました」

◆夢は自己記録更新、指導者としての一面も

 「自衛隊体育学校で全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)を目指すために入隊を決めました。休日は自主練習で母校の専修大松戸高校に足を運び、高校生たちと一緒に練習しているうち、山崎昌聡先生から『外部コーチという立場で来ないか』と言ってもらい、今は外部コーチも担当しています」

2024年1月 七草マラソン 一般男子10Kmの部

 将来の目標は自身のトラック種目全種目の自己記録の更新と元日の全日本実業団駅伝を走ること。また、教え子の1人1人の目標を達成させられる指導者になることだ。

 「中学時代から高校、大学、現在もチームメイトや指導者に恵まれていました。それぞれの時期、苦楽を共にした仲間との思い出は一生の宝物です。 高校の同期で箱根駅伝や全日本実業団駅伝を走った杉山魁声、私のように箱根駅伝を走れず、実業団で続けている原田凌輔と全日本実業団駅伝で再会するのがモチベーションとなっています。中学時代から現在に至るまで、ありがたいことに多くの方に応援していただき、大きな支えとなっています。全日本実業団駅伝を走ることが「恩返し」につながると言えるかはわからないですが、応援してくださる方がいる限り、目標に向かって走り続けます」

(取材・文=さとる)