今シーズンは4回V・ファーレン長崎の試合にお邪魔させてもらった。
私の中の「プロスペクト選手」である田中隼人が期限付き移籍。「じゃあ、J2でまた会おう」と約束をしたタイミングで、勝手知ったる秋野央樹の再契約が発表。おまけに監督は下平隆宏氏ときたら、記者としての血が騒がないわけがない。
たった4試合だが、自分なりに良い時も停滞期も見させてもらった。シーズンを通してどんな変化があったかもなんとなく理解しているつもりだ。
ただただ、うれしかったのは秋野の復帰。消えない痛みと戦い続けるうち、契約を終了という事実は年齢的にも重い事実だったはずだ。育成年代の最後の年から付き合わせてもらっている記者のひとりとしても「秋野がトライアウトに参加」というニュースを見た際には様々な感情が去来した。
「あの時はもう、『プライドが…』なんて言ってられなかったから」
秋野のその言葉には突き動かされるものがあった。
11月3日のフクダ電子アリーナ。ジェフ千葉の反撃を逞しく凌ぎ切った長崎は、2ー1で勝利。勝点3をプラスして「72」とした。2位の横浜FCとは勝点3差というしびれるシチュエーションで、最終節の愛媛FC戦を迎える。
私にとっては今季最後の長崎取材となるこの日、少し前倒しで秋野に総括を求めた。
すると、やはり話はここから始まった。
「今季を始める前に、自分には本当に色々なことが起きて、またもう一度この長崎のユニフォームを着てプレーできているということは、普通ならあり得ないことだと思っている。そういった形でプレーをさせてもらって、シーズンのほぼすべての試合に出させてもらって、『サッカーをできる喜び』や『試合に出る責任』を感じながらのシーズンでした。改めて、サッカーをできる幸せを痛感しています…『やっぱり、サッカー選手っていいな!』という気持ちです」
このタイミングだから、秋野にも伝えていない純粋な気持ちをここで言ってしまおう。
まだ肌寒かった宇都宮で、「この長崎というクラブに『もう一度このクラブに呼んでもらえたことに対しての恩返し』という意味合いと『なんとしてもJ1昇格を』という使命感が自分の中にある」と淀みなく話す声を聞いた時、勝手ながら、秋野央樹という選手の中に必要なパーツが揃ったように感じていた。
育成年代では世代を代表するスーパーエリートの1人だった。だが、怖いものなしで扉を開いたはずのプロの世界では、リオ五輪出場を目指しながらも、柏レイソルではベンチに入れるかどうかの立場。思っていた世界とはかけ離れていた。
当時はまだ20歳そこそこの青年、焦りもあったに違いない。次第にどこかささくれ立った表情やコメントが増えていった記憶もある。今になって思うと、私たちが抱いていた秋野への大きすぎる期待も、彼を苦しめたかもしれない。
ようやく出場機会を得るようになるとともに、自分に足りないものを求め湘南ベルマーレに期限付き移籍。結果はJ1昇格とタイトル獲得、背番号10を託され完全移籍を経験。当時奇しくもこのフクアリで勝利を見届けたことあった。その後長崎へ旅立つことになるのだが、そこで経験したことのない足の痛みが秋野につきまとった。
「こんなはずじゃない、オレはこんなもんじゃない」。
おそらく秋野は自信とは少し違うプライドを片手に諫早の地に辿り着いたはず。アスリートに必要なメンタリティではあるがしかし、これらは本人も他人も扱いが難しい感情のヒダである。
足の痛みが消えると共に消えていったのは、その扱いの難しい感情のヒダ…そして、契約だった。
いちど落ちるところまで落ちた人は強い。容易く言ってはいけないが、今の秋野にはその表現がよく当てはまるように思う。明らかに思い描くようなキャリアを歩めていなかったように見えていた一方で落ち切ってもいなかった秋野が、この衝撃によって強さを手にしたことは断言できる。
長かったシーズンは最終局面にある。
再び長崎のユニフォームを着た。左腕にはキャプテンマーク。各地で旧友や先輩後輩とも再会した。勝ち続けた時期もあった。長い足踏みも経験した、体のどこかが多少痛んでも、まるで生き写しのような子息の笑顔で奮い立った。素晴らしいスタジアムも建った。季節の移ろいと共に周囲の注目や期待は大きくなっていった。チームやサポーターと誓い合ったおぼろげだった景色はだんだんその輪郭をはっきり表そうとしている。秋野にブレはない。
「自分としてはやっぱり一番上のリーグ。J1でプレーをしたいですし、長崎をまたあのステージへ連れて行きたい気持ちに変わりはない。まだ最終節を残していますけど、何が起こるのかなんて分からない。だから、『人事を尽くして天命を待つ』という心境です。自分たちは自分たちのやるべきことをやって、良いニュースを待ちたいし、どんな形になるのであれ、J1昇格へ進んで行きたいです」
戦術について話を聞いたこともある。結果についての疑問を投げ掛けたこともある。また、ある先輩選手を交えてリーグの難しさや「取材」では聞けない領域のチームへの自信についての話も聞かせてもらったが、私が再び秋野にマイクを向けるに至った理由がようやく整理されたような気がする。
「『プライドが…』なんて言ってられなかった」
「個人的な事情は置いておきたい」
「諦めたくない」
「サッカーをできる喜びを感じている」
「試合に出る責任を感じている」
すべて今シーズンの取材での秋野の言葉だ。少し前なら思っていてもなかなか口にする言葉ではなかったような気がする。その意味で私はやっと秋野の素顔に近づけた気がするのだ。どこか笑顔も増えた気もする。
近年では最も頻繁に話を聞かせてもらったこともあり最大限の幸運を願ってやまないが、この先の長崎にどのような結果が待っていようともこれは伝えておきたい。
ちょっと、文字数を使い過ぎたが…「今の秋野央樹は信じていい」。そして、「笑っていい」。
思わぬ展開で記事が進んだが、大切な話を忘れずに聞いておいた。
それは、「ウチの田中隼人、どうでしたか?」ー。
「世代は全然違っても、日立台のあのグラウンドから巣立ってきた選手とプレーをすると、同じところから来た者同士、自然に体が反応するんです。『阿吽の呼吸』って感じでね。『そこに出してくれるんだ』とか『ここに欲しい、ありがとう』って。こちらから伝えなくても分かりあっているような。そんな感覚的な気持ち良さはお互いに感じているはずですよ」
見ていれば分かる。両者の間をボールが行き交うと何が起こる。概ね同じ画を描いているから。前線に強烈な外国人選手たちがいて、中盤にはクオリティがあって、目を見張るハードワーカーだっている。近くにも遠くにも目が届き、メッセージ付きのボールを放てる秋野と田中にとっては「ご馳走」だったのかもしれない。
では、「プロサッカー選手・田中隼人」はどうだったか?
秋野は少しだけ含みを持たせながら、こう語ってくれた。
「もちろん、隼人にとっては『成長した1年』なんじゃないかなとは思っています。元々、レイソル時代の隼人を見た時から『良い選手だ』と感じていましたし、すごく良い印象が残っていた選手。自分が長崎へ戻ることになるタイミングで、隼人が長崎へ…となって、『これはきっと良い補強になる』とすごく楽しみにしていました。一緒にプレーをするうち、隼人が持っている良さもコンスタントにJ1でプレーできなかった理由も分かった。それは隼人が一番分かっているはずだと思うし、その理由に対してしっかりと向き合って、もがいてもがいて、今季の成長に繋げたと思いますけどね。隼人はもっともっと成長を続けないといけない選手だと思うし、自分たちももっと隼人に強く求めていきたいし、その中で、『隼人、まだまだだよ』ってところもしっかりと伝えていきたい」
田中よ、よくやっていることは知っている。
だが、どうやらそういうことのようだ。
申し訳ないが、今の秋野は信じられる。
だから、私は秋野の言葉に大きく共感してうなずいた。
ちょうど、そのタイミングで田中は取材エリアへやってきた。取材エリアでの連携もバッチリだった。
(写真・文=神宮克典)