●K太先生の「 放課後の黒板消し」 45

なぜ?自分ですか?

 教育現場に限らず、最近ドキリとする受け答えが増えているように感じませんか。それは何か新しいことを指示したり、何気ない用事を頼んだりするような場面で多く見られます。

  たとえば「次はこれをやろう」と新たな教材や練習メニュー、これまでにない取り組みなどを示したとしましょう。すると次のような答えが悪気無く、むしろ素朴な質問のように返ってくるのです。「なぜこれをやるんですか?」「何かやる意味、あるんですか?」

  かみ砕いて受け止めれば、この練習や教材をやる効果を知りたい、ということなのでしょう。しかし、一方で「意味の無いことをしたくない、効率的に、できるだけ楽に済ませたい」という印象も受けます。

  特に教えを請うている立場やチーム全体で足並みを揃えて取り組む必要がある場合には、要注意です。指示に疑問を差し挟むことは、意識をバラバラにし、モチベーション(動機)ややる気を減退させてしまいます。出端をくじかれるとも言えますね。

  ほとんどの場合、無意味なことをさせようとするはずがありません。一見大変で非効率的なことに見えても、やり抜いた先に成果が現れるものです。また、地道に取り組む課程にこそ意味があることも多いのです。先述の疑問は、取り組む前から、これらの可能性を否定しかねないのです。

  似たような事例ですが「○○さん、ちょっと手伝ってくれるかな」と声を掛けたときに、「自分ですか?なぜ私なんですか?」と受け答えされるケースがあります。

  名前を呼んだ上で助けを求めているのですが、なぜ助けが必要か説明する必要があるようです。また、他の人でもできそうな仕事であれば、なぜ自分がしなければいけないのかを知りたい、ということなのでしょう。

  「嗚呼、地獄に仏とは正にこのこと、あなたに助けていただけたら恐悦至極、感謝感激雨嵐、どうか!」といえば、振り向いてくれるのだろうか。世知辛い。


■K太先生
現役教師。教育現場のありのままを伝えるコラム。
 


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「障がい」ではなく「違い」

 「車いすバスケットを見ていたら、一人の選手がスーっと体育館の端まで来て、すっと立ち上がってトイレに入っていった」。一瞬「あれ?」となるこの話は、車いすスポーツが障がい者の人たちだけのものではなく、障がい者と健常者がハンディ無く一緒に取り組めるスポーツであるということを示しています。

  大学の准教授で美術を専門とする伊藤亜沙の『目の見えない人は世界をどう見ているか』は、いわゆる福祉関係の話ではなく、あくまで身体論として見える人と見えない人の違いを確認していく一冊です。障がいを助けるものと決めつけるのではなく、単に健常者が使っているものを使わずに世界を捉えていると考え、新しい社会的価値を見出そうとするものです。

  一方、劇作家で演出家の竹内一郎の『人は見た目が9割』では、「人を見た目で判断してはいけません」と注意されるのは、そもそも人が見た目から様々な情報を受けとっているからに他ならない、という発想がスタートになっています。

  顔つき、仕草、目つき、色、距離など、膨大な視覚情報が持つ意味を考える一冊です。心理学、社会学からマンガ、演劇まであらゆるジャンルを通じて「非言語コミュニケーション」について知ることができます。

  実際に、学校の教室のカーテンは淡いグリーンやクリーム色が多く、保健室は白や淡いピンク色の空間になっています。これらが心に集中力や安心感を与えるからです。

  演劇での演出が生業の筆者がその効果(ねらい)の裏側を語るというスタイルも面白いです。

  間もなくパラリンピックを迎える日本です。見た目と見えない世界、二つの広い視点でこの祭典に向き合いたいですね。


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